「自然にまもられ大切にされている私」

「自然をまもり大切にする」…
いまを生きる私たち日本人の殆ど誰しもが、これを否定しないでしょう。
自然をまもること、自然を大切にすることは、私たちが生きる現代社会にとっての共通の課題…あるいは目標と言って良いのかもしれません。

美術家でありたいと願う自分にとって『自然』はその出発点として何よりも重要です。ここで言う自然とは、森や川や山、木や石や水…といった姿かたちあるものである場合もあるし、自然な状態や自然な気持ち…など、姿形を伴わない「自然」の場合もあります。
とはいえ、私は表現を「自然をまもり大切にする」ために用いているつもりはありません。表現には多かれ少なかれ、メッセージ性が含まれていないとも言い切れませんが、それでも表現はあくまでも私の主観的な視点から出発し捉えた「いま」であり「ここ」でしかない…私の主観を他者に強要するつもりはありません。
ただし、私がいま、自然の中に何を見て何を思っているのかについてを、自分の仕事をとおしてたくさんの人々に感じて頂きたいとは思っている。
私の仕事が時として、「自然をまもり大切にする」という気持ちへとつうじることもあるのだとすれば、それは美術家としてとても嬉しいことだと思います。
a0162646_22143917.jpg


東京から長野に生活の拠点を移して3年半…。森や山、自然との関わりが徐々に増し、最近では森を通じて子供たちと関わることがとても多くなってきました。

私が生まれ育った場所は、現在私たち家族が暮らす善光寺門前町からもほど近い
山と川と森のすぐ隣り…いわば、森と町が接する境界線上のようなところでした。
そんな幼少から少年期の私にとっての自然とは、すぐそこにあるもの、いつもずっと変わらないもの、私よりはるかに大きなもの…であって、自然とは「まもるもの」でも「大切にするもの」でも無かったような気がします。

私にとって、「自然をまもり大切にする」といった意識はごく最近になって芽生えたもの。
おそらく、その意識はArtとの出会いと深く関係しているであろうことは間違いなく、東京という大都市でArtに出会ったことも大きな要因であったのではないかと思っています。

ところがなぜか…。
東京に暮らしている頃には感じていなかったのに、20数年ぶり…長野市に戻って3年を経過した最近になって、「自然をまもり大切にする」と聞く度に、「あれっ…なんだろう?」と、妙な違和感を感じている自分に気がつきました。
それと同時に、少年の頃に感じていたあの感覚が自分の中にいまも変わらずあることにも。
そしてふと思ったこと。
あの時私は、「まもられ、大切にされている」と思っていた…と。

すぐそこにあるもの、いつもずっと変わらないもの、私よりはるかに大きなもの…。
山や森を駆け回っていた少年の私が経験をとおして、実感として感じていた自然。
そんな自然をずっと感じ続けていたい。

だから、現代社会に生きる私たちが「自然をまもり大切にする」という意識を持つことはとても大切なこと。
ただし、この社会をどう捉えるかは重要で、自然と人間とを区別する…あるいは、人間本位の社会の捉え方は、人間のおごりたかぶりを露呈し、ややもすると、自然は人間が支配できるもの…という愚かな幻想を抱きかねないとも思うのです。
a0162646_22162339.jpg


哲学者の内山節氏は、著書「内山節のローカリズム原論―新しい共同体をデザインする」の中で、昨年の3.11の大津波の後にも海を信じる漁師たちについて触れながら、自然と災害の関係性についてこう言っています。

「日本の社会やコミュニティーは自然と人間によって構成されているというのが伝統的な考え方です。人間のパートナーとして自然がある。その、社会を構成している半分のメンバーである自然には今回災害が起きていない。人間だけに災害が起きているということで、このこととこれからどう折り合いをつけていったらいよいのか。この問題とどう向き合っていったらよいのか、これからの課題だと考えています。
ただ、地震や津波は自然にとって災害では無いのですが、じつは原発事故は自然にとっても災害なのです。」


RIKI-TIRBAL 小池雅久 記  2012/8/1

a0162646_2217261.jpg

  若林 奮  「緑の森の一角獣座」
[PR]
by cafe_mazekoze | 2012-08-01 22:19 | RIKI-TRIBAL | Comments(0)
<< アウトドア 旧暦 >>