森と風のがっこう3.11後 その2 「森の共同性」

森と風のがっこう(岩手県葛巻町)がスタートさせる、これまでの日本にはなかった「子育ての森」と「循環の森」を組み合わせたエコロジカルデザインの体現を目標とした、森と生活を結ぶフィールドづくり。その道筋として開催される、「子育て」と「循環」の森づくりワークショップ “楽しみながら子どもと森をつなぐエコロジカルデザイン”
私もその講師を担当させて頂くことになり、先週末の7月16日~18日は、その第2回目のワークショップとして、「子育ての森」~アートオブジェづくり~ と題したワークショップに伺った。キーワードは、「アート」と「五感」 そのものズバリすぎるかな…といった感も多少はあったけれど、それでもアートと五感は切り離すことはできないし、特にこれから森と風のがっこうで始まる、「子育て」と「循環の森」構想にとっては特に欠かすことのできないキーワードだと思っている。
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「五感」で感じることをつうじて自らの内に沸き起こる気付きの瞬間。そして、その気付きの瞬間を見逃さず捉える力…。
この一連のつながりが「感性」であると私は理解している。
私たちは皆…他の誰とも同じでは無い、誰とも交換することのできない、この世でたった一つしか無い「感性」を持ってこの世を生きている。

この世を感じるための生なのか…それとも、感じるからこそのこの世…なのかはわからないけれど、いずれにせよ私たちはこの世をあらゆる方向から受信する装置ともいえる心と体を授かってこの世に生を受けたことだけは確かなようだ。
しかし、五感をつうじて育まれる感性はもちろん、情報や経験などをつうじて得られる知識もまた、自らの内に「気付き」という過程が伴わなければ、心と体はこの世を感じる…この世を生きる装置としては十分に機能することはない。

この世に自分が生きていることを自らがまざまざと感じること…
生のリアリティーとは、この世に自分が生きているということを信じることができるということ。「気付き」はそのためにあると言ってもいいと私は思う。
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いま、気付きの瞬間は暮らしのいたるところにあるにも関わらず、私たちは自らの内に起こる気付きの瞬間をあえて封印してしまっている…もしくは、私たちは日々の暮らしの中で、自らが感じていることを表側に出すことを躊躇するようになっていやしないだろうか…。
そうやって、自らの気付きを自ら封じ込めることで、人々は、互いの「個」の領域には深く干渉しないという暗黙の不可侵の約束ごとを取り交わしているような気がするのは私だけなのだろうか。

「感じる」そして「気付くこと」によって育まれる「感性」という生きる力。
この世界の中に、感性に従って生きることを阻むもの、それは、「信じること」の対極にある…。
「感じること」「気付くこと」をつうじて育まれる「感性」は、何人たりともそれを封じ込めたり、干渉したり、歪めたりすることは許されない絶対自由の領域にある。
それはたとえ、その感性を持ち合わせている自分自身であったとしても。

人が正直に生きるとは、自らの内に起こる気付きを認めること…そしてその気付きを私から私以外へと恐れずに伝えること…互いに気付きを伝えあうことだと私は思う。
そうした自らの内に起こる気付きを連鎖させることこそが持続可能性ある社会をつくるためには最も必要なことであるはずだ。
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今回開催した、「子育ての森」~アートオブジェづくり~ と題したワークショップでは、そんな「気付き」を如何にして自分の内に見つけ出すかという3日間だったと思っている。
ワークショップのお題目として ~アートオブジェづくり~ と銘うってしまったので、
参加者のほとんどが、「アート」に一瞬は躊躇してしまったかもしれないが、逆に、このワークショップに参加したことをつうじて、アートは自分の内なる気付きへのきっかけとして感じてもらえたとしてたら、それはとても嬉しいことだと思っている。

「アート」にとって「難しい…」は既に枕詞となってしまっているようないま、「アートを日常に取り戻すこと」…「アートを解放すること」はとても重要なことだと私は思っている。できることならばこの一生を美術家として生きたいと望む私ではあるけれど、“アートのためのアート”であるような現在の状況の中に埋没して残りの一生を終えるのはどうにも忍びない。生きている気がしないというか…、これも根っからの貧乏性ゆえの妄想か…。
まぁともかく、既にこの世界の中で巨大化しすぎたアートモンスターに好き勝手にしてやられるわけにはいかないし…そろそろここらで一蹴り食らわしてやりたい…と真剣に思う美術家がひとりぐらいいてもさして問題はないだろう…。
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森には生命が満ちている。
私たちは森の中で育まれ続けてきた生の記憶を持っている。私たちが森へ出かけて心安らいだり、森に生命の気配を感じるのはすべてこの生の記憶が森に共鳴し、私たちの心が振動するからだと私は思っている。
こうした心の振動は新しい生の記憶として遺伝子に刻み込まれ、そしてまた森にプールされ続けてゆく。森とはそういう場所だ。
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「子育ての森」とは、子供の中にある生の記憶が森に共鳴し、新しい遺伝子を森に書き加える…プールすることだと私は思っている。
「子供は森によって成長するが森もまた共に成長する」
森と風のがっこうが目指す「共に教えあい学びあう場づくり」…という精神はこうした森と人との関係性…森と人との間に築かれる共同性によって育まれ続けている。

この共同性にとってもっとも大切で決して欠かすことのできないもの…。
それこそが、「気付き」だ。
子供の成長を考えた時、大人が子供を森に連れてゆくことができるかどうかはとても大切なことかもしれない…でもそれ以上に重要なのは、子育てを意識する大人の中に“森へ行きたい!”という気付きが起こっているかどうかだと私は思う。

子育てに限らず、すべてこの世の生の成長は、「相互関係性」「共同性」のもとで育まれる。大人が育てる側であるとか子供が育てられる側であるという一方向的な関係性のもとでは、「気付き」が伴わない…もしくはその瞬間を捉えることは難しい。
「五感」で感じることをつうじて自らの内に沸き起こる気付きの瞬間。そして、その気付きの瞬間を見逃さず捉える力…。この一連のつながりが「感性」であるとすれば、一方向性的な子育てでは、「感性」は育まれにくくなるのは当然だと思う。

「感性」は私たちにとってなぜ必要なのか。
まずは一度 森へ行って森の気配を感じてもらえたら…と思う。
そこにある膨大な遺伝子の中に、私へとつうじる遺伝子がきっとある。
感じることができれば、きっとその遺伝子をみつけらるはずだ。


小池マサヒサ 記

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by cafe_mazekoze | 2011-07-23 09:25 | RIKI-TRIBAL | Comments(0)
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