IE9ピン留め
マゼコゼ日記
         ◆◆◆ cafe MAZEKOZE ・カフェマゼコゼ ◆◆◆
 長野市、善光寺門前町…表参道大門交差点から西側2本目の路地裏。
一昔前まで問屋さんの倉庫として使われていた蔵づくりの建物に、住みながら、カフェを営みながら、Artしながら、ものづくりしながら…まぜこぜに暮らしています。 

営業日;月曜~金曜   定休日土曜日曜祝日
 モーニングタイム:午前8時~10時
 (モーニングタイムは冬の間、お休み。)
 アフタヌーンタイム:午前12時~午後6時頃まで

 〒380-0843 長野市長門町1076-2
 026-225-9380(TEL&FAX)
 cafe_mazekoze@yahoo.co.jp

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                     ◆お知らせ◆

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                 ◆◆マゼコゼ日記◆◆
 カフェマゼコゼ管理人 小池つねこ と RIKI-TRIBAL 小池マサヒサ による日記。
“いま大切に感じていること” “いま伝えたいこと” を気まぐれに書いています。
            新しい投稿記事は、このページ下にあります。

*************************************************** ◆RIKI-TRIBAL ~ Sustainable Art Works
リキトライバルは私達の屋号…活動名称です。
Sustainability(持続可能性)をテーマに、カフェ マゼコゼの運営をはじめ、アートワークショップ、アートワーク、オーダーメイドによるものづくり、店舗・住宅・庭などのデザイン設計施工、給排水設備工事…などなど、なんやかんや あれこれやっております。CafeMAZEKOZEの隣がアトリエです。アートに関すること、つくることに関しての相談・質問など、なんでもお気軽にお声をおかけ下さい。
RIKI-TRIBAL WEB  http://www.geocities.jp/rikitribal/
      
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         ::::::::::::::協力者求む::::::::::::::
           絵本とArt&いろいろ…まぜこぜなカフェ
   『Cafe MAZEKOZE から、Cafe&Picturebook.MAZEKOZEへ』
         
 マゼコゼの1階部分を広げ、絵本が見れるCafe&絵本や本やArtの展示や販売
  &アートワークショップなどができるようにしたい…と思って準備を始めました。
  12月初旬OPEN できれば今年の冬にはOpenしたいと思っています。
  Cafe&Picturebook.MAZEKOZEへの協力者を広く求めています。
        私たちの活動にご興味ある方、ぜひお声をおかけください。

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展覧会のお知らせ

もうすぐ2月に突入ですね。
2月は長野市門前界隈では、灯明祭りにあわせていろんな催し物があります。
マゼコゼでも演劇が開催される予定。
詳しくは後日お知らせする予定ですが、2月のマゼコゼは2月12日(日)には縄文気功のワークショップ、15日(水)と16日(木)は「わらべうた」そして17日(金)と18日(土)は月蝕ストゥーバによる演劇「卒塔婆小町」が開催される予定です。
そして20日(月)から29日(水)は種まく人工房の展覧会を開催します。
まずは、展覧会のお知らせから

種まく人工房展
2月20日(月)から29日(水)まで11:00-18:00

江沢正雄の草木染と手織りの仕事紹介します。暖かいウールやシルクのマフラーやショールなども販売します。ぜひお出かけください。
そして期間中の24日(金)1:30~「カード織り入門・平ひもを織る」のワークショップを開催します。
参加費1500円(カード10枚と材料費込み、お茶つき) 定員10名  
要予約となります。ご興味あるかたはお早めにどうぞ!
cafe_mazekoze@yahoo.co.jpまで、ご連絡ください。
なお、展覧会に来てくださった方に(先着50名さま)藍の種をプレゼントします。
お楽しみに。




◆マゼコゼ日記 最近の記事 Menu◆
# by cafe_mazekoze | 2013-01-23 14:56 | カフェMAZEKOZE | Trackback | Comments(0)
明日は営業します!
おとといから、ボイラーが使えなくなり水で食器を洗ったり、料理しているわけだけど。。。
東京でもキッチンは水しかでないところで生活していたから平気かと思っていたけど。。。
やはり長野は冷える。
水の温度が違う。

ボイラーなんとか元にもどってくれればと業者さんにも問い合わせてもらったけど、やはり無理。
あーどうしよう!
そんなこんなで「ついてない」と思っているところに、朝からガシャーンとガラスの割れる音が聞こえた。
しかも、外は雪!
夫が外側にある鉄の扉を開けようとして鉄の扉の鍵がガラスにひっかかり、扉のガラスが割れる。
こちらは、お店オープン前までに夫が扉そのものを1枚変えてなんとかなった。

ボイラーもパーツがあれば夫が直せるのにと言っていたが、もともと古い型の中古を買っているからパーツはもう販売していない。
そういった点では、パーツがないというほど昔と今とで変化のない扉は楽。
自動ドアとかだと別だけど。
ガラスと建具を変えて、扉が半分新しくなりました。新しくなったといっても古いです。(笑)

そんなわけで、扉も新しくなったので明日28日は土曜日ですがオープンします。
ランチはありませんが、おやきやお茶でもぜひどうぞ。

  雪を食べるピス

   今日も一日中雪

  あまり変わらないですが、つぎはぎパッチワークの扉になりました
# by cafe_mazekoze | 2012-01-27 18:24 | マゼコゼなこと | Trackback | Comments(0)
藍色の布
先日、父親の四十九日の法要に実家に帰った。やはり実家のある三重県は暖かい。
長野の寒さと全然違い、いつも2枚重ねのソックスを電車のなかで1枚ぬぐ。

その日は、お寺さんに行く前にかなり時間があったので、実家の周辺をゆっくり一人で散歩した。
ちょうど染物やさんの前を通ったら、藍染の布をほしているお婆ちゃんを見かけた。
松阪木綿を干しているお婆ちゃん。少し話しかけたら「糊ぬきしてるんよ。」と言っていた。
きれいな藍色。
そして、すこし又歩いてお茶をのみに茶屋にはいり、その建物の2Fで展示されている松阪木綿を見る。
やっぱりすごく綺麗。
縦じまもいろんなタイプがあって、いい感じに色あせてどれも本当に綺麗。
この色あせた感じが自分はとても好きだなと思い、自分はこれが好き!とはっきり言えるものに久しぶりに出会ったなと思ったりした

そして、茶屋を後にしてお寺にむかう。
実家からは少し離れたところに父親のお墓とお寺はある。
お寺では猫がお出迎えしてくれて、最後も猫が見送ってくれた。

天国でお父さんは元気にしているかな?と空を見上げて思った。
長野に帰る電車では、窓から雪景色が見える。
やっぱり寒い。

色あせた感じのもの。。。長野では出会うことが少ない。
光が違うんだろうなと思う。

夫の右目に入ってくる光の量は今極端に少ない。
それはそれで、違うものが見えるのだろうとふと思ったりした。(ちょっと前向き?)

       父とも来たことがあるお茶屋さん

  いよいよ法要 お坊さんのお経の倍音がお腹にひびく
# by cafe_mazekoze | 2012-01-26 00:26 | 出会ったコト・ヒト・モノ | Trackback | Comments(0)
標準
最低気温-5 最高気温0℃ 雪時々曇り

この時期、最低気温が0℃以上の朝は冬が遠退いてしまったような寂しさを感じる。
とは言っても、寒暖計が無くとも0℃を正確に判断できるということではない。
ただ、冬が好きなだけ。
朝は最も冬を感じることができるから、
だから冬の朝は寒い方がいい。
それだけのこと。


右目の視力は0.04まで低下した。
目に何の不自由さも感じていなかった頃には、想像すらしなかった0.1以下の視力で感じる世界は、私たちが生きるこの世界の標準では無い。
病とは自分自身が世界の標準では無いことを知ることに始まる…。


「網膜中心静脈閉塞症」という病は、徐々に網膜の浮腫(むくみ)が進行する傾向があるらしく、その浮腫が視力にとって最も鋭敏な横班部に影響すると視力はさらに急激に低下するそうだ。おそらく私の今の目の状態がそれ。

病は気の持ちようなのか…、見えるような気がする日もあれば、今日のように、殆ど見えない気がする日もある。
いまの状態が昨日と比べてどうなのか…と質問されても、少しでも見えるようになって欲しい…と望む気持ちが自分の中にあるからか、昨日と今日の見え具合の違いをを客観的に判断し伝えることはとても難しい。

前回の診察で主治医から、浮腫を少しでも軽減させる可能性、今後予想される重大な合併症(網膜内の新生血管の発育)を阻げる為に「アバスチン」という薬を目の硝子体に注射する治療を提案され、先週、その注射を行った。
アバスチン(一般名:ベバシズマブ)という薬は本来、結腸・直腸癌に対する治療薬として開発・承認された抗癌剤。眼科領域の治療に対しては、国の承認は得られておらず保険適応外だが、アバスチンが、血管の新生、成長を活性化する血管内皮増殖因子(VEGF)という物質に対する抗体として、VEGFの働きを抑制し、異常な血管の増殖や成長を抑えるという効果が期待できることから、大学病院など一部の病院では臨床研究という目的性のもと患者の同意を得られる場合に限り使用され始めている。


アバスチンに限らず、いかなる薬も…病に対して薬を使うにあたっての副作用の心配は、心身に重くのしかかる。事実、私が抱える一つ目の疾患、「抗ラミニン332粘膜類天疱瘡」の治療で内服しているステロイド薬の副作用は、「ステロイド緑内障」という眼病として現れた。
そして、「網膜中心静脈閉塞症」と「抗ラミニン332粘膜類天疱瘡」との間に因果関係があるかどうかについて、医学的にはそこに関係性があるという確証は得られてはいないし、原因も定かではないが、二つの病が一つの身体という生命体を通じて起こっていることを思えば、そこには関係が無いと考えることの方が不自然だ。

とはいえ、西洋医学を根幹とする現代医学が悪いとは言えない。
現代医学によって、私たちの心も身体も助けられ支えられこの世に生きる上での不安を軽減できていることは紛れもない事実だ。
西洋医学は、この世に満ち溢れる生命を常に事実という視点を持って客観的に捉える。徹底的な研究と探究によって治療方法を導きだし統計から結論を見出す。
偶然性を否定するということでは無いにしろ、偶然とは必然では無い…全ての命にとっての共通性を見出すこと…そこに集中する意識が揺るがないからこそ、これほどにも多くから頼られ続けてきたのだとも思う。
社会の価値観と西洋医学の価値観が一体化している現代。
現代に生きる私たちの生命に対する意識…西洋医学とはその現れなのだと思う。


ただ、生命を『自然』という視点から見てみれば、「いまここ」の生命バランスは極端に狂ってしまっている…と思う。
自分自身の身体を通じて日々感じる。
自分はいま自然なのだろうか…と。



いま自分が感じている痛み…自分にいま起こっていること。
…幾つかの「病」は確かに自分自身の痛みとして、自分だけが感じられるものとして起こっている。
ただ、自分が感じているこの痛みとはどうやら、自分が抱えている「病」から生じる痛みだけでは無く、それ以外の痛みと大きく共鳴しているような気がしてならない。

世界を単純に西洋と東洋に分けることはできないけれど、こと医学に関しては、日本に生きる私たちにとって、西洋医学に対する東洋医学と考える人は多いと思う。
東洋医学は、「病気」とは体のある部分だけの病変ではなく、身体全体…すべてがつながった一つの生命体の病変としてとらえ、人体の全体性を重視する。
最も大きな特徴は、人間にはもともと備わっている『自然治癒力』があるという捉え方。
この自然治癒力を如何に高めるかが東洋医学の根幹とも言える。
別の言い方をすれば、「自分の内側から治癒しようとする力を沸き起こすことこそが重要」
それには、病が有る無しに関わらず、常に、自分と自然とは一体のもの…人間も自然の一部であるという人間観を持ち続けることができていなければそもそも「自然治癒力」という考え方を理解することすら難しいのかもしれない。

西洋医学には基本的に「自然治癒力」という概念が無いのだという。
もちろん、自己免疫への働きかけは治療にとって必要不可欠なものではあっても、あくまでも薬や手術といった外的な力の作用こそが重要であり、「自然に治る」…や、「自然を信じて待つ」…というような概念は既に西洋医学にとっての医療とは言えないということか。
この背景にあるもの…それは砂漠に代表されるような厳しい自然環境の中で生き抜いてこなければならなかったというリアリティーだと思う。
乾いた土地に生きる人々が、天を仰ぎ雨を待つ…天に救いを求める。自分を助けるものや救ってくれるものを求自分の外側に求める気持ち、「大いなる力」は自分の外側にあるもの…という気持ちが起こるのは当然なのかもしれない。
そうした土地に生きる人々にとっての自然とは生命に対しての脅威…そこには、人間もまた自然の一部という考え方…「大いなる自然に感謝して生きる」 「自然に生かされている」という発想は生まれにくかったのかもしれない。



西洋からすれば東の果て、東アジアという温暖な気候の中に生れ育った私たち。
私たちの祖先は、五穀豊穣をもたらす大地に感謝しながらこの土地に生き続けることで、やがて、死と再生を繰り返しながら絶え間なく生命を生み出し続ける力そのものを『自然』であると考えるようになっていったのだと思う。人は自然に生かされていると知った人々は、自然への感謝と同時に、時に、人に対して猛烈な力で襲いかかる自然の脅威に対して畏怖・畏敬の念を抱きながら、それはやがて、東洋的な生命観や宗教観、自然観を育むことへと繋がっていったはずだ。
自然が生命を生み育てる。
この世に息づく生命とは全て一つの有機的な繋がり…互いに連鎖・関係しながら変化し続け、絶え間なく自己生成、自己創造していくエネルギーの現れだ。
そうした考え方があってこそ、自分の中に病を治す力や癒す力…『自然治癒力』という概念が育まれ、だからこそ、人々は『自然であること』を信じてこれたのだと思う。

「大地に感謝し自然からの恵みをいただく」と表現してきた日本人の根源的な感性は、こうした自然観が背景にあることは間違い無い。
…しかし、自分はもちろん、「いまここ」を生きる日本人にこうした自然観や感性はいったいどれだけ残っているのだろう…。時に、私たちに対して襲いかかる自然の脅威に対して畏怖や畏敬の念を感じることはあるだろうか。

「自分の内なる力」…それは、自分の内に自然があると信じる力だと思う。
いまは、この地に生れ、この地で育まれた自分の感性を信じること。
そうすればおのずと自然は私を本来あるべき姿に戻そうとするような気がしている。

                     小池マサヒサ 記

# by cafe_mazekoze | 2012-01-24 16:04 | RIKI-TRIBAL | Trackback | Comments(1)
Natural Building
Natural Building
日本語に訳すと、自然の建築…とか、自然建築になるだろうか。
日本ではあまり聞きなれない言葉かもしれないが、アメリカを中心に、土や木や石…といった自然素材を家づくりの材料として用いながら、可能な限り自分でつくる、セルフビルドといった手法も用いながら、建築的な側面を通じて広くNatural Buildingは浸透している。

          東京都日野市個人邸 壁面を子供たちとつくる。

英語であるNaturalを自然、Buildingを建築とか建てること…と訳すことに大きな間違いは無いのだろうけれど、それが何であれ、伝えたい事柄を限られた言葉や単語にあてはめて伝えるしか無い言葉のやりとりには限界がある。
そもそも、地域性や文化や習慣を背景として生れる言語を、背景が異なる他言語に訳すことによってそこに歪みが生じることは当然…言語を訳すことはとても困難なことだ。
ただ、この歪が生じるからこそ…その歪について深く知ろうとすることの中に、私たちにとっての「いまここ」を知る手掛かりがあるような気がしている。

Natural Building は、私たちRIKI-TRIBALの活動にとってとても重要な位置にある。
今後はいま以上さらに、Natural Building という場づくりを通じて、
『自分の力でつくること』の喜びを、同じ未来に向かおうとしている人々とシェアしてゆきたいと考えている。



PlanterCottage(東京都国立市)…上の写真右下の緑色の部分がPlanterCottage
下の写真は、その内部。 今年、4月限りで借用権が終了し建物は解体されることがきまった。1999年から13年年間続けてきたこの活動はこれで一応終了する。


             森と風のがっこう(岩手県葛巻町) 森のキッチン
「森と風のがっこう」は、岩手県北部、青森県との県境に近い山間の元分校を利用しながら、もったいない・ありがたい・おかげさまをテーマに、知識だけじゃわからない、やってみればわかる、エコロジカルな暮らしを提案している。私たちも、開校から2年後から現在に至るまで、「森風」の理念に賛同し、様々な活動のお手伝いを行っている。森のキッチンは、身近にある材料を見つけ出し、自分たちの力でつくる、森の屋外キッチンづくりプロジェクト。多くのボランティアの力と、数回のWSを織り交ぜながら、約1カ月半で完成。



日本では、ハウスメーカーであれ、住宅工務店であれ…自然素材を選択することは既に、家づくりの前提条件と言っても良いほど…。
この前提条件が、予算や工法などの制約などによって増減することはあれど、近年の日本の家づくりは素材感を通じて自然と繋がろうとしている。

かつての高度経済成長時代から、経済の低迷気へと時代が変化するにあたり、経済は自然やエコロジーを経済戦略の中心に据えて久しい。
既に自然やエコを謳うことに斬新さは無く、もはやそれは使い古された感があることは否めない。

とはいえ、自然やエコという言葉が社会に広がり浸透してきた“いま”は歓迎すべきだろう。
「自然」という極めて抽象的な概念が社会全体にとって重要さを増すためには、経済的な観点からもまた重要さを得る必要性がある…経済全体が自然という価値感を押し上げるような動きも必要だ。
たとえそれが半ば強引に仕向けられた価値観だったとしても、結果として人々が、自然に対してより深い理解へと向き始めたのだとすれば、それは良しとすべきなのかもしれない。

                茶禅洞(東京都国立市)…茶室

しかし、ほんとうの意味での自然に対する意識の芽生え、気付きがこれから起こるかどうか…“いま”は単に始まりにすぎない。
私たちの生命が自然と一体であるということについて…自然との繋がりについての学びはいままさに始まったばかり。この学びを如何に永続的に持続させるかは、私たちの生命のみならず、地球全体に息づく全ての生命にとって欠かすことができない重要課題であることは言うまでもない。

そしていま、自然と向き合う為の『場』が必要だ。
「場」とは、ある場所や地点だけでは無い。
それは、場所と人やその周りの環境が一体となってつくり出す“流れ”や“うねり”あるいはムーブメントに近い。
イメージを越え、全身の感覚によって実感として感じられるような…自分が自分以外の生命と繋がりあっていると実感する為の『場』
その「場」へと繋ぐもの。
Natural Buildingはその為の重要な機会となるはずだ。


              川崎市多摩区 個人邸 公団住宅の改装

いつの頃からか、「家」や「村」のしきたりやきまりごとに堅苦しさや不自由さを感じる人々が増え、「家族」のあり方もまた多様化することによって、家制度や村社会がはたしてきた、「共同性についての学びの場」として機会は失われてしまっているのが現実だ。
もちろん、学校教育を始めNPOなど様々によって、共同性の学びの機会は存在する。
けれど、『生命とは部分の積み重ねでは無く、一つの有機的な繋がりである』という全体性への気付きは、暮らしという一つの繋がりを通じて沸き起こるもの…その意味からすると、かつて家や村がはたしてきた役割を、それ以外が担うことはとても難しいことだと思う。その難しさは、Natural Building にとっても同じかもしれない…けれど、自然と向き合い、自然を感じながらつくることによって、人と人、人と自然が繋がりあっているという一体感がより鮮明に、より具体性を増すことによって、新しい共同性が育まれるのではないだろうか。

Natural Buildingは、自然の中に息づく生命と自分という生命を繋ぐイメージから始まる。
例えば「木の家」…自然とはこの世の生命が息づく全体の姿…連鎖と関係の網の目の中にあると同じように、「木の家」という全体の姿を生命という視点から見てみれば、その周囲には驚くほどたくさんの生命を見つけ出すことができるはすだ。
木や土や石や水…といった部分をいくら積み重ねても自然という全体には至らないと同じように、自然素材を積み重ねるだけではNatural Buildingには至らない。

Natural Building を自然の建築」と訳すことは間違いだ…とは言わないまでも、そう訳してしまうだけでは、大切な何かを見落とされてしまうような気がする。
大切な何か…それは自然に向き直ること、自然への理解、自然への気付き…それがNaturalであり、それがあることによって、建築へ…自然と建築との関係づくりへ…Buildingへと繋がってゆく。
限りなく連鎖し関係し合う一つの有機的な繋がりをイメージする為に…
「自然に対する深い理解と気付きの為の建築」
それがNatural Building 「自然の建築」なのではないかと私は思っている。

                                  小池マサヒサ 記


       東京都国立市 個人邸 ベランダを“空き缶”と”土“でつくる。

# by cafe_mazekoze | 2012-01-20 21:54 | RIKI-TRIBAL | Trackback | Comments(1)
わらべうたの知恵さん
昨日、今日とマゼコゼで行なわれた「わらべ歌の時間」。

月に一回、東京から坂野知恵さんに来てもらって、マゼコゼの2階でわらべ歌を皆で教わる時間。
今回も楽しく、たくさんの人が参加してくれた。

そして我が家の娘も、この「わらべ歌の時間」が行なわれている時間は学校に行っていて参加できないが、毎月知恵さんが来てくれるのをとても楽しみにしている。

知恵さんが来てくれて、一緒に過ごせるのが娘にとってとても嬉しいことなのだが、もうひとつ知恵さんが来てくれて嬉しい理由がある。

それは。。。知恵さんがもってきてくれる「おみやげ」。

今回は特にヒットだったようで、「あのパン。。。」と今もつぶやいたりしている。(笑)

知恵さんは、子どもと同じ目線に立てる人だなあ~と、このパンを見た時つくづく思ったが(笑)、楽しいことや、わくわくすること、子どもと同じ気持ちになれること、いいなーと改めて思ったり。

「わらべ歌の時間」で、嬉しそうに走り回っている子どもを見ると本当に楽しいんだなと安心する。
次回は2月15日、16日です。お楽しみに。

   肉きゅうパン 中身は中華まんと同じような具が入っていた 美味しい!

    我が家の犬は肉きゅうパン 食べれず。。。

   わらべ歌の時間

  おまけ  今日おばあちゃんが買ってきてくれたダルマさん
# by cafe_mazekoze | 2012-01-19 23:28 | 『小さな芽』 | Trackback | Comments(0)
冬の芽
私の目の状態についてご心配を頂き、心より感謝しております。
現在は、少しでも症状が改善方向に向かうよう治療を続けている段階です。
いましばらくは、ご迷惑をおかけすることもあるかとは思いますが、どうかご理解ご協力を頂けますよう、今後ともよろしくお願いいたします。           小池雅久

                      Karl Blossfeldt



こうして自分がこの病に接してみて思うのは、
あらためて、この世は目に見えないもので満ちている…ということ。


左の手のひらで左目を覆い、薄ぼんやり幕が張ったようなまま、ぼやけて見えにくい右目で雪原のずっと先を見つめながら足元の雪を握る。
手の中で融ける雪。
自分の中に流れる温かい何かを感じた。




今から70年近く前に始まった日本の戦後は、「高度経済成長」という国策のもと、集団就職列車や出稼ぎなどによって、地方の労動力を大都市とその近郊に誘導することに始まった。これによって、都市にはヒト・モノ・カネ・情報が集まり、戦後復興の、今日の日本をつくりあげる原動力となった…と私たちは理解している。

しかし、それが国土とはいえ、生命と同様、部分を積み重ねても全体にはならない…生命とは一つの有機的なつながりで、部分の和とは異なるもの。
全ての生命は連鎖と関係のもとにあるはずだ。
今日の都市とは、国土全体のバランスを著しく破壊することによって巨大化、成立しているという事実を私たちは忘れてはならない。そして、何がどのように破壊されてしまったのか、それはつくり直すことは可能なのか、どのようにしてつくるのか…についてを、たえず生命という観点から捉え、実践してゆかなければならないと思う。

生命とは、この目には見えない。
私たちがこの世に生きながら生命に気付く為には、満たされすぎた都市の暮らしを目を閉じたまま、全身で感じてみる必要があるのかもしれない。



都市と地方の格差問題は、少子高齢化という問題と連動して語られることが多い。
…子供の出生数が減少し、高齢者の人口は増加している…という人口分布からは、少子高齢化の傾向は見えるけれど、だがそれをそのまま少子高齢化問題として捉えることには疑問が残る。
今日の日本、とりわけ戦後の日本を必死に立て直してきた人々が歳を重ね、高齢となったことには、感謝こそすれど、そうした人々の高齢化を問題扱いすることはできない。
今後ますます進む高齢化社会においては、なによりも、高齢者に対する「感謝」「尊敬」の念を社会的に確立させる必要がある。そんなことは本来、確立するようなことではなく当然でしかるべきことかもしれないが、既に高齢が問題扱いされてしまっている現実社会においては、何らかの行動が必要になることはいたしかたないことだと思う。
いまのままでは、「姥捨て山」的な社会風潮は加速し、世代間の繋がりはさらに希薄になり、この世の生命バランスはいま以上、さらに崩れてしまう危険性がある。

…例えば、私が現在暮らしている長野市。
長野市には全国的に名の知れた善光寺や戸隠神社を始め、数多くの神社や寺院がある。高齢化社会においてはこうした神社や寺院の役割は極めて大きい…。当然それら数多くの神社や寺院を擁する長野市の役割も重要ということだ。
神社や寺院が観光客集めの装置としてあるだけではなく、この地に暮らす人々が、高齢者のみならず、全ての生命に対する「感謝」「尊敬」の念を持って生きる暮らし…その先頭に神社や寺院、そして長野市が立つことが望まれる。そういった姿は、この長野地域のみならず、地方と都市を繋ぐ重要な糸口となるはずだ。


社会的に見れば、医療や介護のコストが増加するのは、今後社会の重要課題ではあるものの、それはそうした人々が高齢化したことが原因というわけでは無い。高齢化率が上がることが問題視されてしまうのは、本当の問題の解決策が見出せない…という深刻さがあるからだ。

本当の問題、それが「小子化」
生態学的、地球環境的、食糧的観点…から考えれば、地球人口は既に過剰であり、これ以上の人口増加はさらに問題を増加、加速させると言われているけれど、地球規模で見た場合の人口増加の問題を、生命とは一つの有機的なつながり…連鎖と関係の視点で捉えれば、日本における地方と都市の格差や少子化という問題と、地球規模の人口増加問題には関係があると考えるべきなのかもしれない。
地球人口は増加の一途、日本の地方人口は減少の一途…東京圏の人口増加が止まる数年後には日本の総人口の減少が始まる。

日本のいまを生きるためには、大なり小なりの差はあれど経済活動は欠かせない。
そしてまた、地方人口の減少、少子化という深刻な問題はこの国の経済のありかたに直結している。
地方の人口減少の大きな理由は、若者の働き口が年々少なく無ってきていること。
地方のみならず、この国の若者の人口減少は私たちの生きる社会にとって極めて深刻な問題だ。
地元に残る若者にしても、雇用が不安定で収入が少なければ結婚もできず子供も生めない…という現実が直面する。地方社会からの若者の減少は、地域に元気がでない最大の要因となり、結果として地域経済の縮小再生産を生む。

この問題を解決する為には、大きな側面では国策が…「これまでとは真逆の国策」が必要なのかもしれない。これを簡単に言ってしまえば、都市から地方へ「モノ・カネ・ヒト・情報」を移動させること…それは戦後復興の際にとった国策とは真逆の国策だ。
とは言っても、いま望まれるのは、かつて地方の衰退ぶりを憂い、総理大臣にまで登りつめた田中角栄氏が著した日本列島改造論では無いし、土建国家の地方拡散でも無い。
言ってみればそれは、「人を育む社会」に向けた国策ではないだろうか。
まずなによりも、若者が働ける職場、環境づくりは急務…。
地方での結婚・子供の誕生・安心できる子育て・教育環境の充実…などを、大胆に、真剣に国策として実現させるようでなければ、地方の人口減少、少子化に歯止めをかけることは極めて難しいのではないだろうか。

政治の役割は重要だ。けれど、国政であれ地方政治であれ、政治は政治家という専門家の職業になり…人々の暮らしから遠く離れてしまったことによってつくられる、“他人まかせ意識”が、地方と都市の間の格差問題や人口減少少子化という問題の根底に横たわっている。…私たちはあまりにも政治に無関心でありすぎた。
私自身ずっとそうだった。
政治に疑問も不信も感じるまでもなく、政治は遠いところに置かれたままだった。
「自分たちの暮らしについて自分たちが考える。」
「自分でできることは自分で行う。」
それがいつからだろうか…自分の責任を政治に転換するようになってしまったのは。


私自身は既に若者とは言えないが、かつて東京から長野市に、家族と共に戻って暮らす想像をするにも、「仕事」は大きな障壁となっていたし、実際、こうして長野市に暮らすようになったいま、私の仕事がある意味で特種とはいえ、東京に暮らしていた頃に比較すれば仕事も収入も激減している。
ただ、これについてはある程度は想像していたこと…。だからこそ長い間、東京から離れることができなかったのが現実だ。
たくさんの人も物も情報も、そして金も集まるからこその大都市。
東京のみならず都市の引力は強大だ。
自分のこれまでを振り返ってみて思うのは、この引力圏から抜け出すには、それ相応の覚悟と決意が必要なのかもしれないということ…。
そして、都市を離れ、いま地方で暮らすには、「自分の働く場は自分で見出す力」が必要なのかもしれない。
夢や想いは人間を揺り動かす原動力…生命力の源だと私は信じてはいるけれど、残念ながら都市での暮らしと同じようにしているだけでは、地方では働く場は見出せない。

では、どうすれば良いのか…。
…私は、それこそが生命への気付きなのではないかと思う。
この世に満ち溢れる生命とは一つの有機的な繋がりそのもの…全ては生命と連鎖関係する網の目の中にある。
この世に満ち溢れる生命への気付きと共に自分の中に『いまここ』の感覚は沸き起こる。
都市に依存した暮らしから離れ、『いまここ』の感覚を信じて生きると決意したならば、必ずやその先に自分の働く場が見えてくるような気がする。

本来、政治とは、この『いまここ』の感覚を持つことから始まるのだと思う。
「いまここ」という瞬間から次の「いまここ」という瞬間へと繋ぐもの…それが「生命」あるいは「人」であるとすれば、政治とは「生命」もしくは「人」との対話…政治力とは生命と対話する力に他ならない。

美しいものがなぜ美しいのかを見抜き、その美しさ長く後世まで繋ぐ力…
そうした力を私たち一人ひとりが持つことでようやく、地方と都市は一つの有機的な繋がりを持った全体へと戻ってゆくのかもしれない。


小池マサヒサ 記

# by cafe_mazekoze | 2012-01-16 21:39 | RIKI-TRIBAL | Trackback | Comments(2)
風の神様
今日は一人しなの鉄道に乗って篠ノ井の市民会館ホールに行った。
目的は『ユタと不思議な仲間たち』の演劇を見るため。
出演者のメンバーは週一回の3ヶ月のワークショップを終えての発表。
メンバーの構成は小学生から大人まで、知り合いが出ていたりもして楽しみにしていた。

芝居の中に出てくる座敷わらじたち。
風をおこして、とんがり山まで主人公を連れて行ってくれる。

ジョンバーニンガムの「くものこどもたち」のシーンを思い出した。

風をおこすことができたらなー。
方向を変えることができたらなー。

そんなことを思いながら芝居を見ていた。

新潟のわらべうた「風の神様」も思い出した。

♪ 風の神様
ごっと吹いて
くらっしぇ くらっしぇ
あしたの晩に
餅ついて
酒かってあげる
あげる  ♪


写真は、科学館で風をおこす機械に向かっている娘 3年前かな?
# by cafe_mazekoze | 2012-01-15 21:18 | 『小さな芽』 | Trackback | Comments(0)
窓からの風景
2階の窓から見た景色が、こんな日だったりすると、雪景色の山がホワイトチョコのケーキに見えるのは、やはり食い意地がはっている私だけだろうか?

昼間は暖かい長野市だけど、朝晩は雪景色の日も多い今日このごろ。
雪の日は妙に静かな一日で時が止まっているように感じ、心落ち着く。
娘の場合は、雪の日は心が躍る。
犬のピスも心が躍る。
「さー外にでて雪遊びしよう!」という娘のお誘いに大喜びなのは犬のピス。
# by cafe_mazekoze | 2012-01-13 22:26 | 出会ったコト・ヒト・モノ | Trackback | Comments(0)
『いまここ』という感覚
永遠に続く瞬間の積み重なり…。
瞬間を、いまここ へと導くもの…それが生命。
いまここ に自分は生きている。


私たちの誰も、自分自身がこれから何処に向かおうとしているのかを知る為に、行く先を決断する為に、『いまここ』という感覚を欠かすことができない。
『いまここ』の感覚は、この世に満ち溢れる生命とは一つの有機的な繋がりであるということ…全ては連鎖と関係の網の目の中にあることへの気付きと共に沸き起こる感覚だと思う。

いま私たち人間は、この世に息づく生命の本質でもある、連鎖と関係の網の目からはみ出してしまってはいないだろうか…。暴力とはこの世の生命全てが連鎖し関係し合う網の目からはみ出した姿だと私は思う。
この世の全ての関係性が非暴力の元に繋がりあうことをイメージする力を身につけることが必要だと感じていた私は、自分の生き方として選択したArt…美術とは、その為に、誰もが使える必要性があるのではないか…と思ったことがRIKI-TRIBALの始まり。
以来、RIKI-TRIBALの活動の中心にWorkshopを位置づけてきた。
私たちが考えるワークショップとは、自らの経験や体験をとおして感じたこと、考えたこと…気付きをシェアすることによって、自らの成長のみならず、互いに成長を促しあってゆく為の場づくりそのもの。

昨年11月と12月に、Rocket Stovesのワークショップの講師(ファシリテーター)として関わらせて頂いた。どちらのWorkshopも価値ある時間となったことに感謝しているけれど、私自身にとって、あらためてWorkshopそのものについて考える貴重な機会となったことに感謝しなければならない。

Rocket Stovesについて自分たちなりに思うことや伝えたいことなどについては時折、マゼコゼ日記にも書いているので、そうした記事を読んで下さった方が、遠路はるばる、Cafeマゼコゼまで見学に来て下さったり、質問のメールを送って下さったりと、それはそれでとても有難いしとても嬉しい。
それでも…Blogという通信手段の限界というか、文章で伝えるということの難しさ、歯痒さを感じることは日々とても多く、そうした限界や難しさの全てをワークショップが埋める?…ことはできないまでも、人と人が直接会って、話したり作業を共有することによって得られる独特の効果はワークショップだらかこその魅力だと思っている。

そもそも自分が、Rocket Stoveについての多くを知ったのはインターネットという通信手段の発達があったからこそ…当時、その全てがアメリカからの発信だった。
そのことを思うと、自分の経験もインターネットを通じてシェアすることはとても大切だ…と思ってはいるものの、残念ながらいまのところ実現できていない。
自分はやはりローテク思考なのだろうか…Workshopのような、人と人が直接会って、話したり作業を共有する場をつくることへと意識も体も向いてしまうのだ。

Workshop…は、ここ最近になって広く一般的に認知された感がある。
自分が意識的にワークショップという手法を用い始めたのも10年ぐらい前から。
…今思えば、それ以前から…それは学生の頃から。まだワークショップという言葉そのものが使われていなかった頃、自分一人では作業が難しい大きな作品づくりは友人に協力してもらったり、一人だけでは効率が悪い作業(陶芸の窯入れとか野焼きとか…)では、共同すること、お互いに協力することは欠かすことはできなかった。そうした経験が、現在の自分のワークショップの基盤となっていることは間違いないと思う。
そうした中にはその後のWorkshopへと通じる要素も多々あったし、その殆どがWorkshop的な展開の中で進められたこともたくさんあったとは思う。
でも、人と人が会話し、作業を分担し、その場を共有しながら、何か一つをつくり上げるだけなら、それはやはり共同作業の域を越えることはない。
例えばそれは、家づくりにしても、合唱や演劇にしても同じかもしれない。
私たちの多くが経験している「学校での学び」と「Workshopでの学び」はいったい何がどう違うかを説明することはとても難しいけれど、なぜWorkshopでなければならないか…は重要だ。

ワークショップについて定義付けるつもりは無いけれど、それでもここ最近、問題解決やトレーニングの手法、学びと創造の手法としてこの言葉が使われる事はとても多く、あらゆる分野で「ワークショップ」が行われているのは事実。
美術・芸術の周辺でもその傾向は同じ…最近では多くの美術館にはワークショップ専門担当の学芸員がいるまでになっている。
こうした傾向を否定するつもりは無いけれど、Workshopは未だ発展途上の段階だ。ここにはまだ大きな可能性があると思っている者の一人としては、これが単なる一過性のスタイルや、人集めの為の都合の良い言葉になってほしくないと思うと同時に、自分自身が『Workshopという場』をつくる者として、その難しさを越えてゆかなければならないとも思う。

昨年から今年にかけての自分の身体の変調によって、RIKI-TRIBALのこれからについて見直してゆかなければならないとは思っている。
年末に発症した目の病によって、自分が「いまここ」ですべきこと、「いまここ」でなければできないこと…についてあれこれ考えてはみてはいるけれど、所詮、自分にできることはたった一つ…
『自分の手でつくること』しか無い。
大袈裟かもしれないが、私にとっての気付きの全ては「自分の手でつくること」から起こったこと…と言ってもいいぐらいだ。
もちろん全てが今までどおり…にはいかないとしても、これからも自分の生き方の中心には、この一生が終わる瞬間まで、「自分の手でつくること」が置いておきたい。
その素晴らしさを…自分がこれまで「自分の手でつくること」によって得られたこと、そして今も持ち続けていることを、それを望んでくれる人々とシェアしてゆきたい。
シェアのかたちは色々…ワークショップもその一つ、マゼコゼをいま以上に、共につくる場として積極的に使ってゆくつもりだ。
それはきっと、昨年、大町市八坂の山中でのワークショップでも強く感じたこと、
『Shareによって育まれる気付き”が連鎖し循環する暮らし…生き方』を実践してゆくことだと思う。
そうすることによって、「いまここ」から、共に考え共につくる未来へと向かうのだと思う。

小池マサヒサ 記

# by cafe_mazekoze | 2012-01-12 08:16 | RIKI-TRIBAL | Trackback | Comments(0)
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